久慈川原本家の歴史


 久慈川原本家のルーツは、今から約30万年前に生息が確認されている久慈川原原人(くじがわらげんじん 学名/ホモ・エレクトス・クチカワントス)にまで遡ると言われてきました。しかし、一部の研究者から「ごじゃっぺだ」と、ねつ造を疑う発言が相次ぎ、現在では、2万5千年~3万年前の茨城県内最古級の旧石器時代の遺跡、久慈川西岸に位置する山方遺跡に痕跡を残した人々が直接の先祖であるとされています。この時代、すでに利用の始まっていた当地産のメノウは、名産として古代には「常陸国風土記」に記され、火打石や宝飾品として現在も連綿と珍重されています。

 

気候が穏やかで災害の少ないこのあたりは、大昔からとても暮らしやすい土地でした。今から約5千年前、世界五大文明のひとつ「久慈川原文明」が発祥します。久慈川と那珂川、ふたつの大きな川が流れている常陸大宮市域は、後世、日本のメソポタミアと呼ばれるように大いに栄え、翡翠や琥珀といった当時の宝が日本海側などの遠隔地より数多くもたらされました。一部の宝は、現在大型商業施設となっている坪井上遺跡から発見されています。ただその華麗な文明は、ある時歴史からこつ然と姿を消します。原因はわかっていませんが、出土した当時の土器の一部に、肩を落とした人物と古代文字とみられる線刻が発見され、研究の末、新発見の象形文字で「シャー アム メ」と解読されました。何かをあきらめた形跡とみられるこの貴重な遺物は、さらなる研究によって、歴史の空白を埋める手掛かりとなることでしょう。

 当地で稲作を開始したのは、今から2千年ほど前に、泉坂下遺跡で人面付土器“いずみ”を骨壺として使用した先祖たちです。同じころ、那珂川沿岸の小野天神前遺跡において、人面付土器を骨壺とする共通の文化を持った一族の出現が確認されます。これが、久慈川原本家と遠い祖先を同じくする、那珂川原本家の先祖といわれています。

 

 その後しばらくは資料がなく、先祖の足跡をたどることは困難ですが、現在の久慈川原本家十人兄弟の妻10人のうちの2人もが九州出身であることは、先祖が防人として九州に派遣された折の、苦難の記憶の痕跡と認識されています。

 

 その後さらに時は過ぎ、平安時代末期、桓武平氏、清和源氏と並ぶ、第三の武家の潮流「阿亜双家(ああそうけ)」がこの地域に根を張ります。阿亜双家は、奈良時代の末に、下野国分寺に流罪となった僧道鏡を追って、現在の御前山の地に辿り着いたとされる、称徳天皇の末裔にあたります。ちなみに、紙漉きの技が当地に伝わったのも、奈良時代の末と伝えられており、称徳天皇の移住に伴ってもたらされた可能性があります。

都を遠く離れて途方にくれていた称徳天皇を、那珂川原本家の先祖が庇護し、皇子の子孫のひとりが久慈川沿岸に進出して地元豪族と婚姻関係を重ね、成立したのが阿亜双家です。思わず「ああそうけ」といってしまう人は、実はこの一族の血が流れている証拠なのです。現在の久慈川原本家は、この阿亜双家の直系の子孫であり、室町時代のはじめに城を築いたといわれていますが、阿亜双城はまだ発見されておらず、幻の中世城郭と呼ばれています。

 阿亜双家は、この地で豊富に産する金採掘の技術も持ち、この地の覇者、佐竹氏を陰で支える重要な家臣として、過酷な戦国期を生き抜きますが、徳川家康による佐竹氏の秋田移封には従わず、先祖の地である久慈川沿岸に居住し続ける道を選び、決意を込めて、姓も「久慈川原」と改め、江戸時代を通じて代々権左衛門を名乗ります。

この頃、数え10歳であった初代久慈川原権左衛門の三男権吉が、久慈川に舟をうかべてアユ獲りに夢中になっているうちに、突然の鉄砲水によって舟ごと流され、行方知れずになるという不幸な事故が起きました。幕末になって判明するのですが、権吉は河口から太平洋まで押し流され、船中で気絶したまま茨城沖を漂流中に、大航海時代のオランダ船に偶然助けられていたのです。船長だったイギリス人ウィリアムは、聡明で物怖じしない権吉をたいそう気に入り、テムズ川のほとりにある自宅に彼を伴い、愛情をもって教育を施しますが、成人する前に病を得て亡くなります。テムズの流れを見るたびに、「クチカワ・・」とつぶやいていた権吉を、ウィリアムは忘れることができず、日本から来た少年の話は子孫へと語り伝えられて行きました。後々、開国した日本を訪れたウィリアムの子孫のひとりから、人づてに、久慈川で死んだとされてきた権吉の数奇な物語が、久慈川原本家にもたらされます。

 

 江戸時代、水戸藩の一農民となった初代権左衛門は、甲斐の国からこの地に金を求めてやってきた永田茂衛門父子と意気投合し、金山のありかを教えるとともに、水戸藩三大江堰の築造にも大きな役割を果たしました。また、7代目権左衛門は、粉コンニャクを発明した中島藤衛門への協力も惜しまなかったといわれています。

  現在の久慈川原本家の当主は、久慈川原権一郎。当主として18代目となります。権一郎の祖父、16代久慈川原権太郎が、鮎、鮭、楮、コンニャク、木材、和紙、メノウ、金、漆など、長い歴史を持つこの地の産物にとどまらず、葉煙草、養蚕、製茶、醸造、シイタケ栽培など、様々な業種に手広く事業を展開し、それがこの地の名物特産品の基礎となって現在にいたっています。